日本でもコロナの制限が大幅に緩和され、多くの人が外出している今年の大型連休ですが、私は今年も自宅で静かに音楽を聴いて過ごすのでした。この頃は、春の生暖かさが2月下旬頃から始まり、5月には夏日になるような気候です。以前は、春の気候で体調を崩すのは一ヶ月くらいでしたが、最近では三ヶ月くらい続きます。2月下旬頃から三寒四温が始まると、気温が下がれば風邪気味になり、気温が上がるとのぼせて寝られなくなったり、食べられなくなったりするため、春の気候は私にとって厳しいものです。ずいぶん前に病院でASDと診断され、ひきこもり生活を始めて15年ほどになりますが、当初は少しでも体調を安定させて社会復帰を目指してと、日々しどろもどろ頑張っていました。しかし、現在では、もう体調が悪い状況を前提で生きていくしかないのかなと考えることが多くなっています。つまり、どんなに頑張っても努力しても、これだけ時間が経っても体調は思ったようによくならず、加えて真っ当な社会経験もほとんど積めずに、いつのまにか若さすらも失いつつあったのです。

障害手帳を持っているASDの生活は、普通の人なら何でもないようなことで、多くの苦労を強いられます。それは、慢性的な疲労だったり、日々の食事にまで及ぶしんどさ、睡眠障害や悪夢、PTSDのフラッシュバック、過去の嫌な出来事を繰り返しいつまでも考え続ける反芻思考、些細なことで体調をすぐに崩すなど、その症状のほとんどは普通の人には何でもないようなことがほとんどですが、症状を緩和してくれるような適切な薬や社会的な共感や支援などは得られないことが多いのが現状です。また、普通の病院で症状を訴えても、内科や精神科のドクターでさえ理解してくれないことすらざらにあります。さらに、他人にこの苦しみや生きづらさを説明することは本当に難しく、医師ですら理解されませんから、普通に生きている人が理解できるわけがありません。ただ、赤の他人に理解されないことは、ささいな問題かもしれません。私はASDのひきこもりですが、ASDの中では文章を書いたり話したりすることは得意な方です。しかし、発達障害による特有の症状や苦しみは、兄弟や親ですらいくら説明しても、まともに理解できないことが多いのが実情です。私の実の母親ですら、10年以上の時間をかけてやっとある程度理解できたというレベルです。もしこの記事を読んで共感ができたなら同じような当事者かその分野の研究者とった具合でしょう。

そんな、まともに効く薬もないし、医者や親にもほとんど理解されない。でも、生きている限り、朝起きるたび、朝食を食べるたび、お風呂に入るたび、病院へ受診しに外出した後、日常的にあふれてくるフラッシュバック、胃腸の不調、身体の不快感に耐え続けなければなりません。私は二十数年間に何度も自ら死を選ぶことを考えきました。救急車で運ばれてICUに入院したこともあります。それでも今日もこうして、まだなんとか生きています。そんなつらい日々を支えてくれたのは、音楽でした。携帯音楽プレイヤーが登場して、どこでも好きな音楽を聴けるようになったことで、私の生活は一変しました。日々、常に音楽を聴き続けることで、苦しみが少し和らぐのです。フラッシュバックから、反芻から、身体の不快感から……。そうしていると時間とともに自然と音楽に没頭するようになりました。普通の人なら気分転換できるようなことは世の中には沢山あります。ゲームをしたり、本を読んだり、スポーツをしたり、時には仕事をしたりです。しかし私は体力があまりにもなく、ゲームをしたらすぐに酔ってしまったり、読書をしても目が痛くなって疲れて頭痛が起きたりしました。さらに、疲れることがトリガーになって、フラッシュバックや反芻が発生するのでした。よく言われるおいしいものを食べて気分をあげるなんてこともほぼできませんでした。世間一般で言われているおいしいものは食べるとほぼ気持ち悪くなります。なので、普段の食事のほとんどが軽い苦痛です。そんな娯楽以外にも、人の苦痛を和らげる方法は、誰かに話を聞いてもらったり、木や水などの自然に触れることなどもあります。私は元々、植物や川の石を見たり、写真を撮ったりすることが好きでしたが、ひきこもり状態になってからは、外出することがほとんどできなくなってしまいました。中高の友達や兄弟は皆、県外にいて、頼りになる親もいなかったのです。父はASDで、言葉数も少なく鈍感で、母もトラウマや障害を抱えていたため、幼少期から子供に適切に寄り添うことができませんでした。私がどんなに苦しくても泣いていても、両親ともに、なぜ苦しんでいるのか、どうしてあげれば良いのか、理解できずに簡単な声をかけることさえもできなかったのです。普通の人ならこうするであろう”共感”という常識が私の親にはありませんでした。

約束 お願いはひとつだけ
生きて 生きて
どんな時にも
なげてはだめよ
それはなにより
チャーミングなこと

I’m always close to you / 岡崎律子

幼少期から現在に至るまで、心にぽっかり大きな穴が開いてしまっている私にやさしく寄り添ってくれたのはやはり音楽であり、岡崎律子さんでした。『For フルーツバスケット』をはじめて聴いたとき、こんなに優しく美しい音楽に出会えたことに運命を感じました。しかし、そのとき岡崎律子さんはもうすでにこの世にいなかったのです。それでも、音楽という作品は残されていて、むさぼるように聴き続けることになりました。自力でどうにもできず、頼りにならない他人や親より、音楽を聴くことで反芻から解放され、身体のしんどさもある程度誤魔化され、生きることに絶望した日でも大きな愛で支えてくれるのです。医者から出される薬よりも、母親からの言葉よりも、人生を支えてくれたのは岡崎律子さんという存在、そしてその音楽そのものでした。実の母よりも深い愛を音楽だけに感じていたのです。

今やこうしてブログでつらつらと文章を書いていますが、実は幼少期は兄弟で一番言葉の出が遅かったですし、幼稚園でも先生がつきっきりでした。小学校では作文を書かせたらクラスのなかで常に一番最後で、障害を持った子と同じくらいかそれ以下に書くのが遅かったです。中学校では、まとまった文章が読めずなんとなくで解くしかなかった国語は、常にボロボロでした。そもそも本というものがほとんど読めなかったのです。ASDでコミュニケーション能力が低いこともさることながら、活字がとにかく苦手で新聞を読むことや本を読むことがほとんどできませんでした。そんな”ことば”が少ない人生を歩んできたなかで、一気に語彙が増えていったのが音楽を聴き始めたときのことでした。

私にとって音楽とは、薬であり、言葉であり、愛すべき親のようなものです。人生に音楽が加わったおかげで、ひとりぼっちのモノクロで薄暗い世界にぽっと小さく赤い灯がともったようです。岡崎律子さんの音楽は、美しいメロディ、優しい言葉と声、全てが自分のためにあるようにすら感じてしまいます。そんな人生の中で大きな意味を持つ特別な音楽ですが、やはり同じ音楽をずっと聴いていると飽きを感じてきます。そのため、代わりになるような音楽を探し求めた時期もありました。そうして、オーディオ趣味にはまって世界の名演奏、名だたるアーティストの音楽をむさぼるように聴いていきますが、良い音楽だとか、いい音だと思うことはあっても、やはり何か違うなと感じるのでした。そう岡崎律子さんほどに深い愛を感じることができる音楽は他にありませんでした。しかしながら、トラウマが発生しやすい体質故に同じ音楽を聴き続けることは、その音楽を聴くことですらランダムに存在するフラッシュバックのトリガーとなり得ます。もうすでに、過去に好きでよく聴いていた音楽でさえ、もう一生聴きたくないような音楽も存在しています。音楽を聴くことさえも少しのリスクを抱えているのです。それでも、岡崎律子さんの音楽は特別で、心の痛みに耐えながら聴き続けても飽きることや身体が拒絶するようなことがほとんどありません。これは、もはや音楽という名の”無限の愛”を感じます。ある時、心療内科の先生に「無償の愛ってこの世に存在しないんですか?」と真剣に訊くと、そんなのないよとさらっと流されてしまいました。この引きこもり生活でも、親ですら慈しみや深い愛のようなものが感じられなかった私には、衝撃でした。無償の愛がこの世界にないのだとしたら、この苦しみは一体どうすればいいのか……深く悩み落ち込んでしまいました。それでも、音楽は常に今ここにもあって、無限の愛を与え続けてくれていたのでした。

Would you call me if you need my love?
どこにいたって聞こえる

君がくれる Agape

Agapē / メロキュア

岡崎律子さんの音楽は、私の人生に寄り添う大切なパートナーのようであり、これからもずっとお世話になり続けると思います。そんな大切な存在が、19年も前に夭折していると思うと、とても胸が苦しくなりことばに詰まります。音楽という愛を知ってからずっと、この5月5日をどのように過ごすべきか、大きな課題でした。この頃は5月に入ると発表年代順に一つ一つ作品を聴き直して、こうしてつらつらとブログを書くことで気持ちが安定しています。

あるときから音楽を聴き始め、アニメを見始めて、オーディオ趣味を始め、またあるときには楽譜を買って電子ピアノも買い……。家でできる何かをやり続けてきました。実は、10年ほど前には自分も音楽が作りたい、DTMがやりたいなと思い、勉強を始めましたがあっさりと挫折してしまいました。数年前に始めたピアノも、同じくほぼ挫折していますが、生きている間に達成したいことの一つです。

幼少期の言葉が出なかった自分。学生時代に他人とコミュニケーションがうまくとれなかった自分、家庭内でも親や兄弟とうまくやれなかった自分。日常的にずっと苦しみを抱えて誰も理解してくれない自分……。そんな不出来な過去を感情的に表現し清算する手段が、”趣味”でした。私にとって、すこし良い環境で音楽を聴くことがそれです。今思うと、音楽を聴くにも、メロディーラインと歌詞が聞き取れれば何も問題なかったので、オーディオ趣味にはお金や労力もかけすぎたかもしれません。今ではかなりラフに、iPadで音楽を聴いたりしています。それでも、オーディオ趣味は私がやってきた趣味の中では、特段”パッシブな趣味”であり、多少体調が悪くても常に使えていつも楽しめるギリギリの楽しみでした。そう、写真撮影やイラストをメインの趣味にしていたら、ほとんどの時間何もできずに道具も使えず知識も無駄だと思えてしまうのです。なのでもうすこし体調が良かったならば本当は、ピュアオーディオに一辺倒するよりも、自分なりに下手なりに、岡崎律子さんのようなシンガーソングライターになりたかったかもしれません。ピアノを弾いたり、弾き語りをしたり、作曲をしたりすることは、私にとって永遠の憧れの一つです。それでも、ことばが苦手だった私が、こうしてブログをつらつらと書けることにありがたさを感じ、小さいながらも確実にライフステージが一歩上へ登っていけている感じがします。岡崎律子さんほどではないですが、他人へ向けて”表現”できるって素晴らしいなと思います。

朝目が覚めて、今日が来たと涙を流し、やっとやっと朝食を食べて、また音楽を聴いてブログを書いて、5月5日というこどもの日に、岡崎律子さんという存在にあらためて深く感謝するのでした。

探し求めて 気づいても再生
心ははばたく 何度も何度でも
流した涙 無駄ではないさ
ほらもっと素敵な明日を描こう

本当のはじまりはここから

はじまりはここから / 岡崎律子

2023年5月5日 みかさ

バックナンバー
2022年 5月5日岡崎律子さんの命日。あれから18年。生きることと絶望と
2021年 5月5日 岡崎律子さん命日。聴き続ける音楽。1001回目のForフルーツバスケット
2020年 5月5日 オーディオ趣味のきっかけ、人生を変えてくれた出会い。岡崎律子さん逝去から16年 時は流れつづけ変わってゆく
2019年 5月5日、岡崎律子さん逝去から15年。フルーツバスケット2019を見て想う
2018年 こどもの日 岡崎律子さんに感謝する日
2017年 五月五日 岡崎律子さんに向き合う日
2016年 五月五日 岡崎律子さんに感謝する日
2014年 こどもの日のオーディオの日、岡崎律子さん