1年が過ぎるのはどうしてこんなにも早いのだろう。激動の世界の中、いつも通りの毎日を家で過ごしていると家が竜宮城であったかのように、ふと表に出ると知らない季節が巡っていくのです。今年も大型連休最終日を迎えました。そうこうしているうちに梅雨が来て、気温がぐっと上がって、忙しいお盆が過ぎると残暑の厳しさにエアコンが悲鳴を上げていると、木枯らし一号が吹き始め、寒くなってきたと思うと雪下ろしの雷が鳴り出し冷たい雨が降り、テレビでは年末の暗いニュースが流れ始め、紅白歌合戦をちらりと見た頃には年が明け今年も一年頑張ろうと意気込んでいると、大寒波がやってきて大雪が降った翌日には、暖かい日差しに晒されて空気が霞みだし、3月11日を迎えて少しの嘘をつき、木々が芽吹きだし桜が咲いて、また少し寒くなり桜の花びらが散ったころ、新緑の大型連休がやって来るのです。

四季を通して新居の様子が少しずつ変わっていくのを感じつつ、気づいたら空っぽになってしまった自分の存在がいまどうなっているのか自分でも見えなくなってしまった今日この頃。今年は2月から3回やや強い地震が来て、ビュンビュンうるさいあの音が鳴ったときには頭の中で激しく感情が揺さぶられるのを感じるようです。
毎年、元旦が来る度に4月1日が来る度に、今年の5月5日はどうやって過ごそうかと頭を悩ませていました、今年はハッと目が醒めるとなんの準備もしないまま今日が来ているのでした。

少し前まで、Youtubeの動画作りのことだけを考えて日々を乗り切っていましたが、そんな動画作りをする気力もなく、それでも鬱勃とした気分にブログを書こうにも、去年までこぼれ落ちるように出ていたはずの、ことばがこの頃どう頭を捻っても振っても落ちてこないのでした。こんな感覚に陥ったのは初めてでもないしよくあることです。2018年の冬頃も同じような気分で頭が鉛の海のようでした。考えが出てこないというよりは、なぜかCPUの使用率がずっと100%でタスクマネージャの表示ですらも常にもっさりしているような感じです。

昨年、引っ越しをしてYoutubeを本格的に始めようなんて新しいことを2つ始めたこともそうですが、例年以上に具合が悪いどんどん悪くなっていっています。おそらく引っ越してなくても、同じくらい具合悪くなっていたとは思います。人間、何をどうしようが、八方塞がりだったり、逆に次々に新しい展開へと繋がったり、人生の転機というものは予想の外から突然降って落ちてくるものだと思います。人はそれを厄年と呼んだり節目と呼んだりしています。

初音ミクが誕生してから去年の夏で13年目。13と言えば、というほどこの数字に意味は感じられないけれど、割り切れない素数であったり、西洋では13を不吉な数字として忌み嫌う習慣があります。
去年ちょうど引きこもりはじめて13年になってしまいました。一般的に普通の引きこもりが引きこもり状態を脱するのにかかる時間は3年半程度だというのをどこかで聴きました。Wikipediaによれば引きこもりの平均年数は10.8年とあります。今もなお割り切れない思いです。
自分がこの13年もの長い間なにをしていたかといえば、低体重になって弱り切ってしまった健康状態をとり戻して社会復帰することでした。その為に何かを少しでも変えようと必死にもがきつづけていました。
そして12年目の年に、引っ越しという自分の人生の中で最大の契機がやってきて、家が変わるというあまりに大きな節目ができるのでした。
家が変わって、ブログからYoutubeへある意味で転職のようなことをして、ようやく身の回りの色々なことを変えることが出来ました。ここまでしないと変えられないこととも言えますし、ここまですることで変えられることもあるそんな風に思います。

しかしながら、変わらないこともまたあります。音楽を聴くことです。
こればかりは、あのときも今日もまた変わらずに聴き続けています。

10年前はイヤホンとヘッドホンで、それからしばらくしてからは専らスピーカーで。少しずつ環境や聴き方は変わりつつも同じような音楽を聴き続けていいます。時に飽きたなと思いつつ、たまに耳がなんか変だなと感じつつも。それでも人生になくてはならない大切なパートナーのように音楽はいつも寄り添ってくれています。

ある日の2014年12月20日。坂本真綾の15周年記念ベストアルバムの一曲「everywhere」の再生数が1000回を超えました。自分の音楽史は2007年のWindowsXPから何代かのPCを経由しながら繋いできたiTunesの中から始まっています。そのときiTunesを使い始めたのは、あのiPodを買い音楽というものを意欲的に聴き始め、その中でオーディオという趣味の存在を知り、自分の中で趣味が一つ二つと増えていきました。

それから約2000日、約5ヶ月と8ヶ月経った、去年の八月お盆のこと。ふと、iTunesを見ると再生回数が1001回になっていた曲がありました。去年のお盆はコロナの影響で親戚や兄弟が集まることも遠くへ墓参りしに行くこともありませんでした。
息苦しい暑さと、疲労感と、この新居について自問自答する毎日に、いつものお盆にも増してえらくしんどい8月でした。そんな中、人生で最も大事に聴いてきたであろうあの曲、アニメフルーツバスケットの主題歌「For フルーツバスケット」の再生回数が1000回を超えていたのです。
自分のiTunesで一つの曲が1000回を超えるのは、「everywhere」から「For フルーツバスケット」で二曲だけです。厳密に言えば、アルバムシングルの関係で再生数が散らばったりCDで聴いていたりで、視聴回数1000回を超える曲はいくつかあるようですが。

Mac Music(iTunes)

そこでふと思うのです。たった一回の人生で1000回以上聴くような一曲に今後出会えるのだろうか?と。
これまで聴いてきた音楽の中で、これから千回を超える曲はおそらく何曲かはあると思います。それでも一つのアルバム収まるような曲数ではないかと思うのです。今では、iTunesだけでなくAmazonプライムミュージックHDやYoutubeプレミアムなど聴いた回数がカウントされなかったり、ハイレゾリマスターされたりベストアルバムなどで本当の意味でただの一曲を聴き続けることが難しくなっているように思います。

自分は、ハイレゾにされた曲と既存のCDに入っている曲は別物だと思っています。
とくにアニソンに限って言えば、ハイレゾ化された音楽は完全に別物です。ハルヒやけいおんといった大人気作品のハイレゾ楽曲が改めて配信されたとき、少し古い作品群へ再びスポットライトがあたり、さらには音が良くなってすこし嬉しくもありますが、”音が良くなってしまった音楽”にこれ以上コンテンツが成長しないであろう事、さらにはこれまで聴いてきたその音楽とは何か違う感じがする寂しさのようなものを感じるのです。
ハルヒのLost my musicもけいおんのNO, Thank you!もいつも聴いているのは、結局、音が良くなったハイレゾよりもずっと聞き続けてきたCD版だったりします。
音というのは不思議なもので”絶対的ないい音”というのは存在しません、ないと思います。しかしいつも聴く馴染みの音というのがあり、それが結局もっとも安心感を得られる、とりあえずのいい音と言えましょう。これは音楽業界だけでなくあらゆる分野でそうであるように思います。
これは録音で使うマイクでも同じようなことが言われていてノイマンのあのU87が絶対的な支持を得られているのも実は実際の音質がどうこうよりも、多くの人がいつも聴いている音だからこそ業界標準になっていると聴いたことがあります。

岡崎律子 forRITZ 2021

 

それにしたって、高々一つの音楽プレイヤーの再生数になんの意味があるのでしょう?

10年前、3.11の巨大地震が起きたあのときも、いつものように好きな音楽を聴いているのでした。とにかくあのときは、家族も自分も、世の中ですら混乱していましたから、少しでも平常心でいられるようにと、穏やかでやさしい曲を何度も繰り返し聞いていました。しかしそれからしばらく時間が経った頃、あのとき聴いていた曲を再び聴くと気分が悪くなってしまうことに気づきます。結局、あの頃の混乱が音楽と結びついて聴いてた音楽がそのままトラウマへと変貌してしまったのです。
このとき始めて、CDに収められた音楽ですら、永遠でないこと、音楽という情報にも賞味期限のようなものがあることに気がつきます。それからというものの、音楽を純粋に聴くことを怖れるようになってしまいました。3.11に限らず過去に気分が悪いときや、何かあったときによく聴いていた曲もまたおなじようにトラウマへとシフトしていくことに気づいてしまった頃、プレイリストから音楽を選ぶときもこの曲は過去に似たような嫌な記憶が無いかどうか、また新しく聴く曲ですら今この瞬間の記憶が音楽へ乗り移ってしまうことを危惧して聴く場面を慎重に選ぶようになってしまいました。自由だと思った音楽に大きな制約が出来るのでした。

それと重なるように、2015年あたりから耳の調子がどんどん悪くなっていきます。結論を言うと耳ではなく身体全体の調子が悪いのが耳にまで及んでいます。お医者さん曰く、強いストレスによりメニエール病の一歩手前であるとも言われました。逆に言えば耳の調子は何でもないともとれますが。
そうこうしている間に、精神的にも物理的にも気持ちよく気軽に音楽を聴くことが出来なくなっていきます。大事にしていた音楽は時間とともに朽ちていき、それを受け止める身体ですら思ったように働いてはくれないのです。この世に不変なものがないように、あらゆるものが移ろい消えては現れかたちを変えていくのを感じました。

音楽というのは、不自由な私にとっては生きがいそのものであり、唯一人生に寄り添ってくれる親友のようなものです。どうしようもなく音楽が好きなわけではなく、音楽くらいしかまともに接することが出来なかったと言えば良いでしょうか、これは、本当にただ単純な好き好みではなく、いろいろやった結果音楽だけが残りそこへ強烈に依存してしまっていたのです。音楽だけは絶対的なものだと思っていたそれまでの幻想が崩たあとに、やってきたのはこの世の儚さであり脆さでした。

家の新築を機に、オーディオルームを併設しました。しかしこれは大変な矛盾を生みだしてしまいました。音楽を聴くための最高のコンポネートとも称される夢のオーディオルーム、音はたしかに今まで聴いたどんなものよりも良くなりましたが、それと相反するように、音楽を聴きたいと言う純粋な気持ちと、それを受け止めるための感覚を失ってしまったのです。周囲の羨望の目線と裏腹に、自分にやれることはあまりにも限られていて、ただただ音楽を聴くことでさえも不自由な思いをするのでした。
この状況は一体何なのだろう?恵みのようであると同時に試練でもあるとも思いました。最高のコンポネートは最高に高いハードルでした。それと同時にこれを超えない限りは、この先の人生は行き詰まりどうにもならないかのようなプレッシャーにすら感じました。
同じ所をグルグルと回って迷子になっているように、音楽とオーディオの家と自分自身と家族と悩んでばかりの毎日を過ごすのでした。

そうして、自分自身に疲弊し鬱々としていく中で、生活を支えてくれるのはどうしようもなく音楽だけだったのです。オーディオを始めた頃に聞き始めた名曲と言われるクラシックもジャズも今ではあまり聴きたいと思わなくなり、新しく始まるアニメの主題歌でも新しく聴いてはすぐに忘れていく…、そんな、あれでもない、これでもない、とただただ消費されていくような毎日が嫌になってきた頃、今の自分を形づくっているものは一体何なのだろうかと疑問に感じ、その見つめる先は何もなく空虚にさえ思えたのです。

結局、季節が一周する度に、5月5日が来る度に、目覚めた先にそっとなにかが置かれているかのように、その意味をふと思い出すのです。岡崎律子さんの作品がそこにあり生きる意味がなんなのか、そっとやさしくささやいてくれているようです。

ふと人の一生の短さに悲観したくなるときがあります。しかしそれは人だけではなく、不変に感じられた音楽ですら寿命があり、中学生で出会った一期一会ということばの重みをようやく感じるようになってきたのです。宇宙の歴史からみたら、人の瞬き一回に満たないような刹那の一瞬を生きている私たちに、悩んでいる時間も幸せを感じる時間もないに等しいのです。

新型コロナウィルスによって世界が大変革が起きようとしている今、もし落ち着いて好きな音楽が楽しめているのならそれはとっても希有で儚いことなのだと思います。代わり映えのしない日常で、一瞬の喜びであったとしても、その時々を最大限楽しむほかありません。人生という予期せぬ渦の中で、なにか大切なものが見つけられたならそれはとても幸運で本当に儚いのです。つかんだと思ったそれから一瞬目を離したあとには二度と出会えない喜びなのかも知れないのですから。脆く儚いのこの世にいる限り最悪の出来事も最高の幸福も一瞬です。瞬きしている暇も無いくらいにしっかりと今を見つめて、少しの幸せも取りこぼさないようにしっかりと胸に留めることしか出来ないのです。

そんななかで、岡崎律子さんという人の音楽に出会えて未だに聴き続けていると言うこと、それだけのことでも、こんなに素晴らしいことはないのではないかと思うのです。永遠を信じて疑わなかった過去の自分と、明日も同じ日がきて目の前の幸せにも気づくことができない自分に、この世の常を優しく教えてくれるようでした。やはり音楽は自分にとって最大の良薬であり人生の指針を教えてくれるまるで聖書のようだと思うのです。

どんな日も どんな事も
永遠などないこと 知ってる

それなら 今を生きてみるだけ
生きていくしかないの

岡崎律子 – Moonshadow より

この先何が起きるのか、それがどうなるかは誰も分かりません。想像を超える恐ろしいことが起きようとも、例え誰にも理解されないとしても、ただ一つ音楽だけは、きっと味方になってくれるはずだと信じて、今日という今この瞬間を生きるしかありません。また今年も、大型連休が終わり梅雨が来てお盆になり台風が来て雪が降り……また次の大型連休を迎えるのです。……
そしてまた、音楽とオーディオと岡崎律子さんというシンガーソングライターに感謝して。

2021/05/05 みかさ