宮崎駿監督の10年ぶりの新作映画「君たちはどう生きるか」が上映開始されました。事前情報は鳥の1枚絵のみで、ネタバレや感想は一切知らない状態で、私は上映初日の14日に観に行くつもりでした。今年、新作映画が上映されると聞いた時、最後の映画を映画館で観ることを目標に掲げました。これまで数多くのアニメ作品が劇場版になりましたが、私にとって映画館で観るというのはなかなかハードルが高いです。この頃は、暑くなってきてから体調が安定せず、夜寝ても4時や5時に目が覚めてしまい、ずっと眠れない日々が続いているのでなおさらです。上映初日の金曜日の朝一にイオンシネマで観ようと意気込んでいたのですが、その日は朝から偏頭痛がして映画に行くのを諦めました。最後に映画館に行ったのはハリーポッターだったと思います。ただ、その時の記憶は音が大きすぎることだけがうっすらと残っています。「君たちはどう生きるか」は今回、IMAXでの上映も選べるようですが、久しく映画館に行っていないため不安が大きいです。また、上映時間が2時間5分もあることも少し気がかりです。宮崎駿監督ももう82歳ですし、これが最後の長編映画になるのではないかと誰もが思っていました。しかし、できあがった映画は、予想とは全く違って125分もの長さでした。それでも、私は「風立ちぬ」が映画館で観られる最後の作品だと思っていましたので、今回の作品がしっかりと作り込まれていたことに驚きそして喜びを感じました。宮崎駿監督の最後の長編映画として、この作品が完成されたことが、ある意味で驚きであり、同時に嬉しくもあります。

映画館に行けない状況で、世間の人々の感想をむさぼっていると、否定的な意見が目立ちます。「意味不明」「面白くない」「期待外れ」「何を伝えたか理解できなかった」といった声が多く見られました。まだ上映から1週間しか経っていないので、これらの感想を投稿した人々の多くは映画好きであり、ジブリファンでもあります。そのような人々が多くが”意味不明”と評しているのです。また、この映画は事前の宣伝が一切なかったため、映画を見ている人たちはライト層ではなく、ディープでトープな”オタク”が多いはずです。

多くのオタクは映画を見て、ストーリーや脚本が後半に進むにつれて崩壊していくと言います。それは、支離滅裂で宮崎駿が映画をまとめることができなかったなどと言うのです。たしかにこの映画を見終わった後、爽快感やわかりやすい感動はなく期待していた面白い映画ではなかったかもしれません。ただただ映画に圧倒されるだけです。そして、疑問が湧いてきます。「この映画は一体何だったのか?」「君たちはどう生きるとは何なのか?」もし答えがあるとすれば、それは”答えはない”が一つの答えだと思います。この映画「君たちはどう生きる」は、「どう生きたか」ではなく、「どう生きるか」を問いただしているのです。どう生きるかについての明確な答えは存在しないはずです。なぜなら、人々はそれぞれ独自の人生を歩んでおり、将来の行く末も決まっていないのです。唯一無二の人生をどう生きるか?そんなものは映画を見てもわかりやすく表現されていないのです。

疑問に思ったことはどんな些細なことでも検索すればそれっぽい答えが出てきます。最近ではAIに訊いたらものの数秒でそれっぽい答えを導き出してくれます。人々は何事も意味や答えを求めたがり、時には自分の人生さえも他者に委ねてしまうことがあります。特にぼんやりと生きている人ほど、その傾向が強いように思います。この映画を見た”オタク”たちから、「意味不明であり、見る価値がなかった」といった感想が出てくるのは非常に残念なことだと思います。この映画には定められた模範解答は存在せず、そのことに気づくことがこの映画の真の価値だと思います。おそらくこの映画は宮崎駿自身の人生そのものであり、吉野源三郎 の”君たちはどう生きるか”を読んだ子ども時代の駿そのものだと感じます。その少年にも、82歳になっても映画監督を続け、事前の宣伝を一切せずに最後の映画を上映しているという事実は、誰にもわからないのです。

この映画についての意見が真っ二つに分かれているのは、人生について気づいた人とそうでない人の違いだと思います。気づいてみれば、苦難に満ちた人生の大部分は、誰にでも受け入れられるハッピーエンドの映画とは程遠いもだと感じます。映画への拒絶こそが、この映画への正しい評価かもしれません。混沌、不快感、意味不明、不条理。もしこの映画の誰かの感想を見るとき、映画の評価としてではなくその人自身の人生の評価として捉えてみると、この映画の本質が見えてくるかもしれません。このような大きなテーマと曖昧な結末に対する意見は、映画の感想という名の自らの人生へのメタ認知なのです。

「君たちはどう生きるか」という問いには明確な答えは存在しません。肯定的であれ否定的であっても、もしも明確で共通の答えがあるとすれば、それは誰かの人生のコピーかもしれません。唯一無二の未来を見据えて、現在をただ生きるしかありません。そこには答えが存在しないのです。その答えは常に揺れ動き、誰も予想できない不確かなものです。どう生きたかについては答えられるかもしれませんが、どう生きるかについては誰も答えることができません。人生はその答えを探し続けることだとさえ思います。

あらすじもわからず、事前の情報も一切ない映画にお金を払い、人生の貴重な時間を捧げて”説教くさそうな訳のわからない映画”を観に行く。もはやこの一連の流れこそが「どう生きるか」ということなのかもしれません。