コロナ禍に入って初めての自由な大型連休です。人それぞれ今まで会えなかった人、いけなかった場所、できなかったことを思う存分しているように思います。刻一刻と様相を変え、いつもより騒がしい世間とは逆に、私はいつもと変わりなく静かに5月の大型連休を過ごすのでした。そして今年も5月5日を迎えました。
5月5日といえばこどもの日ですが、それよりなによりこの日は、シンガーソングライター岡崎律子さんの命日です。亡くなられてから今年で18年もの時間がたちました。Twitterやニコニコ動画を覗くと、今でもひっそりと彼女の音楽を聴き思いを馳せている人を見かけます。亡くなられてからもうずいぶんと時間がたってしまいましたが、フルーツバスケットのリメイクやラジオ番組などで取り上げられると少し話題になる、今でも伝説のアニソンシンガーです。ここ一年では配信サービスにやっと登録され小さく話題になりました。

5月に入ると毎年この季節が来たかとしみじみと、言葉にできない気持ちに胸が苦しくなる思いです。そんな中これまで世に出したCDを発売年順に1枚1枚聞いていくのでした。しばらく前までは5月5日の1日だけで、まとめてすべての曲を聞いていましたが意外に大変なので、5日間に分けてゆっくりとすべての曲を聴くことにしています。そんなことを始めたのは、iPodを使い始めた頃の、オーディオ趣味にはまりはじめた頃でしょうか。それからずっとオーディオ趣味を楽しんでいるというより、かなり病的にオーディオに取り憑かれていると自分でも感じます。その一つの要因として、あるときふと気づくと、人生に寄り添ってくれる存在が音楽しかなかった時期があったからでしょう。
母親も父親も、若い頃に同性の親を亡くし愛を知らないいびつな家庭で育ってしまった存在故に、家族であっても人の愛し方がわからない不器用な親でした。子どもが一人つらくて泣いていてもティッシュの一枚もくれない、そばに来て声をかけるわけでもなく、かといってじっと見守っているわけでもなく。今では発達障害やアダルトチルドレンという言葉が当たり前に世間で見るようになりました、両親や自分が子どもの頃はそういった情報はほぼなく、闇雲に苦しい人生を歩んできました。私もアダルトチルドレンであると同時に父も母もアダルトチルドレンであり発達障害の当事者です。

不完全な家庭の中で、兄弟の中でも特別に身体が弱かった私は、しょっちゅう嘔吐してはぐったりと具合が悪くなっては病院へかつぎ込まれていました。発達障害を抱えていた私は、言葉の出が遅く、コミュニケーション能力が低く、親や兄弟に頭が痛いとか、おなかが痛いとか助けてほしいなどと言葉で伝えることができず、ただただ鈍い母と無関心な父に自然と気づいてもらうまで、必死に具合の悪いのを耐えていました。結局ちゃんと子どもを見ていない父と母には、ほぼ気づいてもらえないので、顔が真っ青になって自力で立ち上がることができないくらいに衰弱するまで放置されるのでした。
そういうことが幾度となく繰り返されていくうちに、幼いながら、絶対に具合が悪くなってはいけない、そこからあらゆることをできるだけ完璧にこなさなければならないというような、脅迫的な完璧主義が生まれてしまうのでした。しかしながらASDでストレス耐性がなかった私は、そういった脅迫的に完璧にしなくてはいけないという強いプレッシャーに体が負け始めます。あるときから、家族で買い物に出かけたり、外食に行ったり、小学校に行こうとするだけでも、おなかが痛くなって吐き気が出るようになってしまいました。しかし、それは心身症の一種、学校を休んだり家に帰ってくるとなんともなく普通に元気になります。鈍い母や無関心な父はそんな様子を見て何の心配もせずただ、問題なかったなと思うだけなのでした。そもそも発達障害の感覚過敏が激しく、ただでさえちょっとしたことで具合が悪くなってしまいやすいのに、それを他人に伝えられないし、一番信頼しているはずの両親に具合が悪いとか苦しいとか一切気づいてもらえない。学校に行くのをやめるとけろっと直ってしまうそれに自分自身がだまされているようでした。しかし、もう小学校の3年生では学年で2番目に欠席日数が多いような状態でした。そのとき1番休んだ子はいじめでの不登校でした。高学年になると毎朝、腹痛が起きるようになりました。しかしながら前途したとおり、病気や障害といった概念が薄かったその時代、簡単に学校を休むとか特殊学級に行くとかそういう選択肢は一切なく高校まで普通になんとか気合いで通うのでした。母親は変に真面目で学校は休んではいけないしみんなと同じようにすることが大事だとすり込まれています。言ってしまえば、ただ体が過敏で弱くメンタルが軟弱だけなので、体調を著しく崩して内科の先生に診てもらっても、病気や障害は見つからずとりあえずの応急処置である程度元気になったらそのまま家に帰り、普通に過ごすのでした。
中学に上がり、強制加入の部活が始まり、小学校とは違う環境と、少しずつ大人へ向かっていく同級生を尻目に何もできずにただただ苦しんでいるだけの自分に気づきます。当時ニートという言葉が社会で話題になり始めた頃です、自分は到底普通の生活ができるような大人にはなれそうにない、きっとニートになるだろうと思いはじめるのでした。今思うと皮肉なことに当時の見立ては何も間違っていませんでした。

高校へ進学すると同級生との絶対的な温度差、学校生活の忙しさはさらに増し、そうしているうちに、本当に普通に食事が食べられなくなり、学校へ行けなくなり、入院し、ただただ呆然と中学の頃思い描いていたニートの道へ着実に進んでいるのが感じられるのでした。幼少期に具合が悪くなったまま放置されたトラウマと、そこから芽生えてしまった脅迫的な完璧主義からの強いプレッシャー、発達障害のもろもろの二次障害。この頃からもうまともには生きていけない、高2の夏頃から本気で自殺しようと考え始めます。今でも時折苦しくなると、あの頃しっかりと自殺しておけばよかったと後悔するのでした。結局死なずにずるずる生きて、こうしてブログを書いてはいますが、やはりどうしようもなく苦しくなることは避けられません。さらには未だに共感だったり寄り添いみたいなものがない両親と、体調が悪すぎて外に出ようにも出られない自分自身ともがき苦しむのでした。

そんな暗闇の人生の中、唯一希望をくれた存在がまさに音楽であり、岡崎律子さんでした。初めてFor フルーツバスケットを聞いたとき、コップの水が倒れたみたいに大泣きしました。社会性がなく、何にもできなかった私が初めて買ったアルバムCDがまさにFor RITZでした。それからというもの苦しくなったら、とりあえず音楽を聴き耐え忍ぶのでした。それはまるで、音楽が親であり唯一の理解者であるようでした。そんなときに音楽を聴くだけでなく、音楽を聴くためのオーディオを機器にこだわるピュアオーディオという趣味があることに気がつき、今に至ります。オーディオシステムは私にとってある意味での生命維持装置であるといえます。逆に言ってしまえばオーディオや音楽に強く依存し続けて、やっと生きているといえます。発達障害のこだわりの強さと聴覚や嗅覚だったりの感覚過敏に、強い不安やPTSDが積み重なった結果、オーディオをやっていないと音楽でも聴いてないと、やっていけなくなってしまったとでもいえましょう。オーディオの話をすると、結論から言って、オーディオ機器に数百万、数千万かける必要性はほぼないです。いつのまにか、不気味なほど巨大化してしまった私のオーディオシステムも、自分の中にある闇を体現しているかのようです。オーディオ界には、音は人なりなんて言葉がありますが、それはまさしく執念で作り上げたオーディオシステムはその人自身であると言っても過言ではないように思います。一般的に、趣味への没頭具合は心の闇と穴に比例して深くなっていくような気がしています。オーディオ以外でも他人を見てなにか違和感を感じる”その変ななにか”は、それだけ大きな正負のエネルギーや執念がつぎ込まれているのです。そういう人はしばしば趣味の輪からもはじき出されてしまいます。私もしょっちゅうオーディオを趣味にしている人から蔑視の目線が送られるのを感じます。普通の人には理解しようにも怪奇すぎて許容できないでしょうし、理解されていなくても人生に支障ないと思います。

フルーツバスケット 四季

世界中にある、あらゆる名曲や名演奏を聴いてもはやり、私の原点は間違いなく、岡崎律子さんにあると感じます。オーディオ趣味へ本格的に踏み込んだときstereo誌やStereo Sound誌といった雑誌やYoutubeをみて優秀録音だったり定番曲だったりを聴きあさり、”音楽”を楽しんでいた時期がありましたが、意外にあっけなく音を楽しむ時期というのは過ぎ去ってしまいました。クラシックファンやオーディオマニアから蔑まされる”アニソン”ではありますが、結局人は生まれ育った環境以上の選択は、ただそれが音楽だとしても、そうそうできることではないと感じます。しかし事実として、どんなに素晴らしい音楽よりもどんなに有名な音楽よりも、ただ一人、岡崎律子さんという存在は、命の恩人と言っても過言ではありません。昨年のある日もうだめだと、これから自殺しようとするその直前、1枚だけCDを聴いているとなんとか気分が持ち直し生きる希望を見いだすことができました。「フルーツバスケット 四季」です。同じ家に、両親はいますが、どうしようもなく私が、そこまで追い詰められて絶望していることを察することができません。本当に今の今でさえも気づかないのです。

ですから、毎年5月5日になると、私に愛を与えてくれた唯一の恩人が亡くなってしまったというこの事実に、落ち込み絶望の淵に立たされたみたいな気持ちになってしまいます。近年までこの5月5日を、どう過ごすかは大きな課題でした。こんなにも辛い1日をすごしていることさえもまた、両親には伝わっていないし伝えても理解ができなかったのです。近くで誰かが支えて慰めてくれるわけでもなく、唯一の支えである岡崎律子さんの音楽ですら聴くのしんどいのです。5月5日という日がある意味トラウマになってしまい、毎年毎年、2重にも3重にも大型連休は大変な思いをするようになってしまいました。

今年の大型連休はいつもにも増して気温が高く夏日のような日が続きました。そのせいかプレシャーもあったのか、偏頭痛と吐き気がひどくて本命の5月5日にブログを書くことができませんでしたが、翌日の今日なんとか例年通りブログがかけたのでとりあえず、よしとしたいです。今後もおそらくずっと苦しいままであることは変わりそうにありませんが、それと同じように、音楽やオーディオ趣味が人生の大切な存在であることも変わらないと思います。
岡崎律子さんに与えてもらったものは計り知れないです。ここから生きる希望をいただき、オーディオ趣味が始まり少しの出会いがあり、家ができ、引っ越しができ、私の中の新しい物語がようやく始まったようです。 だからこうして命日の1日をただただ感謝して生きるのです。死にたいは生きたいの裏返し。「約束お願いは一つだけ、生きて。生きて。」

 

どんな日も どんな事も
永遠などないこと 知っている
それなら 今を生きてみるだけ
生きていくしかないの

岡崎律子 / Moonshadow