今年も冬が終わり、暖かな春がやってきました。例年になく暖かい今年の春は、これまでになく体調を崩す人が多く見受けられます。一般的に春が来るというのは、縁起が良く多くの場合、ポジティブな意味合いで使われることが多いと思います。しかし、木の芽時は天候が不安定であり、体調を大きく崩しやすい時期でもあります。春は出会いと別れの季節とも言われますが、気温の乱高下で弱っている人が次々と亡くなることもあるのが現実です。私の祖母も春に亡くなっています。加えて、今年の春は消化器内科の先生が過労で倒れていたり、高齢の整体の先生も初めての入院をしたりと、健康に関わる人々にとっては負担が多い時期でもあります。花粉症の人は相変わらずこの時期は辛そうですが、春には体調面での困難は多くあると思います。私も2月あたりから体調が崩れはじめ、深夜寝ているときやお風呂に入っているときに、動機が来たり、車に乗ると酔いやすくなったり、食欲が落ちたりと、耐えの春を過ごしています。

そんな辛い春に心に安らぎをもたらしてくれるのが満開の桜です。この季節は春の嵐が起こることが多いですが、今年は桜が咲き始めてから満開になるまで、雨が一度も降らず美しく花開きました。私も長引く体調不良に苦しんでいますが、年に一度の桜の満開を見ると、少し元気が出ます。休日のお昼前に散歩がてら近所の桜を見に行ってみると、入学式前の記念撮影をする親子や、花見に来たであろう老人ホームの方々、写真を撮りに来た人たちが、それぞれ春の訪れを楽しんでいるようでした。

この頃、自宅にこもりっきりで、一眼レフカメラを持って外に出る機会がなくなってしまいました。以前は部屋の写真や庭の花の写真を楽しんでいましたが、最近はカメラがほこりをかぶっています。しかし、晴天と満開の桜の美しさに魅了されに、車で10分から15分ほどの小さな桜並木に行って撮影してきました。春の恒例行事ですが、これまで5回程度はもサクラの写真を撮り、ブログに投稿してきました。今年もまずまずのサクラの写真が撮れたのですが、最近の急速なAIの発展を考えたとき、誰でも簡単に何枚でも圧倒的に美しく芸術的な写真が出力できると感じてしまいます。ここで疑問が生じます。今回撮影した桜の写真をブログに投稿することに、意味があるのでしょうか?一見して、今回撮った桜の写真も、前回撮った写真とあまり差が感じられず、同じ構図で似たような雰囲気の写真になってしまっています。撮っているレンズこそ違いますが大体同じような雰囲気の写真です。
絵を描いている人であっても、写真と同じかそれ以上の違和感を抱くだろうと思います。何時間もかけて描いた自分の絵が、数秒で出力されるAIの絵に勝っているのか?加えて、自分にある程度の画風や作風があって、しっかりと自分のカラーを持っている場合なら、その写真や絵をAIに学習させることでさらにブラッシュアップさせることができます。このことを考えると、同じような作品を定期的に作る意味は果たしてあるのでしょうか?
この問題は、AI画像生成が流行りだした初期から議論されていることだと思います。私は10年以上前に絵を描くことを趣味にしていましたが、今の環境では誰でも簡単に綺麗な絵が出力できるため、私のような中途半端な絵師にとってはかなり朗報に感じました。しかし、実際に風景の写真をとってみると、AIで大量生産される絵をみた絵師の人たちと同じような気分にさせられます。

さらには、スマートフォンの普及により、誰もが少しばかり高性能なカメラと画像処理マシンを持つようになました。一昔前よりもずっと多くの人々がスマホを通して写真楽しんでいると言えます。昔の写真と違うのは、現在の写真がより美しく、より綺麗に加工されていることです。その写真は「もうこれは写真というより絵ではないか?」と感じることも少なくはありません。スマートフォンで撮った写真も、AIによる補正や書き換えが行われるようになっているからです。
星の数ほどあるネットコンテンツの中で、本当に人の手によって作られた純粋なコンテンツはどれほどあるのでしょうか?

加えて、自分でオリジナルの写真を撮影してネットに投稿したものが、AIに勝手に学習され、そこからさらに新しい画像が生み出される可能性があります。ただし、あらゆるネットの写真が学習データとして使われたとしても、一人のアマチュアカメラマンの写真が画像生成に目に見えるほどの影響があるとは思えません。しかし、学習データに使われることを嫌がる人がじわりじわりと存在しているようです。また、Photoshopの処理でデジタル透かしを入れることができますが、機械学習を阻止するための透かしやプラグインも登場するかもしれません。

様々な観点から見てもAIの登場は世界を変えることは間違いありません。これは、一昔前にブログやHTMLサイトで一般個人が自由に世界へ向けて情報を発信できるようになったこと、SNSの発展で世界中の人といつでもつながりコミュニケーションをとれるようになったことなど。それ以上の進化を感じます。またそれ以上の混沌も感じるのです。ブログが流行りだした頃でさえも、Googleの検索結果が、他人が見ても意味のない個人の日記や、情報として信憑性が低いキュレーションサイト、果ては詐欺サイトまでもがネットの情報を混濁させました。明日にでも来るであろうこの圧倒的なカオスは、人の力ではもうすでに制御できないまでの勢いを持っていると感じます。そのとき、インフラと化したネットのあり方や人との共存は可能なのか…一体どうなるか?非常に興味深いです。

春の散歩がてらファインダーを覗いて、シャッターを切って、PCに取り込んで現像して…当たり前にやっているこの一連の作業…
AI出現後のアマチュアカメラマンの写真撮影趣味はデジタル以前のフィルムカメラ時代のもっと個人的で限定的ななにかへ戻るような気がしています。
それは、個々が朝起きて好きな朝食をパパッと作ってさっと食べるみたいに。世界には何も無かったかのようにたしかに存在するそれです。個人の小さなコンテンツは、波打ち際に書かれた文字のようにそこにあったことすらわからない刹那的なものになるでしょう。カメラのシャッターが降りたその刹那、その役割はもうすでに終わったのかもしれません。

 

 

 

カメラの主流も完全にミラーレスに移行し、今まで使っていた光学ファインダーのカメラは一世代前のものとなりました。動画で使用しているカメラはパナソニックのマイクロフォーサーズですが、暗所性能や4K撮影に関してはこちらも一世代前の性能に感じています。スチルも4K動画も両方を撮影できるSONYのαに乗り換えることも考えましたが、使い慣れたCanonの操作性とレンズ資産が足かせになってしまい、現状維持のまま時間が過ぎてしまっています。いいタイミングが見つかったら乗り換えたいと思っていますが、実際にはあまり使用しないため、買い時はおそらくずっと来ないかもしれませんw