2022年も3月になり随分と春めいてきました。えらく暖かい春の陽気と溢れ出る暗いニュースに眩暈がしそうになるこの頃、今年もまた卒業シーズンがやってきました。ここ十数年、ほぼ毎日悪夢を見ます。体調が崩れるこの季節は、特に夜苦しんで寝て悲痛の朝を迎えます。朝ハッと起きたときには、疲労と顎の痛みと息苦しさと、過去の後悔を引きずりながら、いつまでもそこで寝ていたような、早くここから出て行きたいような気持ちの狭間で今日という一日が始まるのです。
昨日は、ちょうど高校で授業を受けている夢でした。教室で淡々と行われる授業、板書を一生懸命とろうとしますが授業のスピードがあまりに早くて全くついて行けません。またあるときは次の授業のノートが見つからず永遠に探し続ける夢。授業中吐きそうになって教室から飛び出してトイレへ駆け込んで嘔吐し続ける夢。朝学校へ行くと靴箱の場所が分からなくなってしまい途方に暮れる夢。学校の帰り道で迷ってしまい家に帰れなくなってしまう夢。11月の冷たい雨の中自転車をこいで学校へ行く夢。朝登校すると教室の自分の机がなくなっている夢。などと、見る夢は学校に関連したことばかりです。その中で、最も良く見るシチュエーションは卒業式の夢です。卒業式の前の日に具合が悪くて寝込んでしまう夢。卒業式の当日の朝学校へ行こうとするといくら自転車をこいでも学校へ辿り着かない夢。式の途中で具合が悪くなって倒れてしまう夢。卒業式に行けずにずっと泣いている夢。
学生生活から遠のいてから、もう何年も経つにもかかわらず、いまでも自分は仮想の苦しい学校生活を送り続けています。どうしたらこの無限の学校生活を終わらせられるのか?なぜこうなってしまったのか?……。

2022年の卒業生、特に今年の高校三年生は、これまでどの世代も味わってこなかったコロナ禍という前代未聞の状況下での学校生活を強いられました。多くの人が、学校生活に疑問を感じ、不満を感じ、思い描いた理想とはほど遠い現実に溜め息ばかりの毎日だったかも知れません。そうでなくとも、中学や高校の3年間というのは人生においてかなり大きな意味があり、多くは苦しみや葛藤の中にあったと思います。高三だったら18年の間の3年、自我が芽生えてから今日まで約15年の内の3年間。現在の人生の20%以上の記憶は恐らく高校生の3年間なのです。そんな人生の中でもウェイトが重い3年間ですが、私の高校生活はあまりにも酷いもので、もちろん卒業式には出席していません。とりあえずの半分保健室登校にて高校卒業としていますが、高校でやり残したことは数知れずです。しかしその後の人生のは、そこを土台として、その記憶の上に築かれていくようです。いわゆる引きこもりの多くは、その土台がないので人生がうまく構築できません。

現在、学校教育が見直され、発達障碍やマイノリティーに対しての待遇が昔よりよくなり、ちょっとした支援だったり、学校が休みやすくなっているように思います。先生が嫌いとか、学校そのものが嫌いとか、勉強について行けないとか、虐められたとか、様々な事情があって、学校が嫌いになって、前向きに登校するとか教室で一所懸命勉強するとかが、難しい状況かも知れません。その中で一度も教室へ行っておらず授業へまともに参加していないそういう人も少なからず存在していると思います。

しかしながら、例え教室へ一度も行かなかったとしても、卒業式だけはとにかく出た方が良いです。前述の通り私はまともに学校に通わず卒業式にも出ませんでした。その結果、脳内での感覚がいつまでも、学校生活が終わり過去のことだった、と認識していません。今でも私の頭の中では学校生活が続く永遠の17歳で停滞しています。終わらない夏休みエンドレスエイト、ならぬエンドレス学校生活が続いているのです。
式典に参加する事は非常に意味のあることだと思います。なんとなく嫌な思い出ばかりの学校生活、なにも意味を見いだせなかった3年間、受験勉強を失敗した空間、いつの間にか過ぎた空白の3年間、これら全てに、卒業という終止符を打ちましょう。卒業式と聴くと、小学校から続く、あまりにも退屈で長くて気分の上がらない卒業式練習や、寒いなかつまらない時間を延々と過ごされる退屈な式です。しかしそれに大きな意味があります。15歳や18歳で「卒業式に行かなかった半日でできた事」よりその後の人生で中学高校をしっかり卒業して終わらせたイメージを持つことが今後の人生で大きな意味を持ちます。
卒業式へ行かないことは、脳に学校の記憶が蓄積されたまま放置すること、頭の中にゴミ屋敷を作ってしまう事と同じです。しかし今なら間に合います。完全なゴミ屋敷になる前ならどんな記憶も捨てられます。

コロナ禍のおかげで卒業式も簡略化されて、行く意味がさらに薄れてしまっているように思いますが、だからこそ出る価値が十分にあると思います。
人間の脳は、終わらせてしまったことを優先的に記憶から消去するになっています。これは逆を言うと、途中で終わってしまったことは強く記憶に残ってしまうのです。これを専門用語で「ツァイガルニク効果」といいます。もし学校が嫌な思い出ばかりで卒業式なんかは絶対に出たくないなら、なおのこと出てください。教室は行かなくて良いですとにかく式典に出たという事実だけを頭へ認識させてください。そうすることで、学校生活が”途中で終わってしまった強い記憶”にならず、終わった過去の薄い記憶になります。卒業式に出るたったそれだけのことが、学校生活が終わったと、脳への認識させる最もシンプルで効果のある方法です。
もし、虐められていて、関わった人の顔を絶対に見たくないから本当に出席したくない。つまりは学校生活を終了させない場合、逆にその思い出したくない記憶やイメージが、途中で終わってしまった記憶として、脳へ強く焼き付けられます。毒を以て毒を制す、あえて見に行く会いに行くことで、学校生活で起きた事を無事に終わらせることが出来るのです。それに、学校生活最後の卒業式という晴れ舞台、それもコロナ禍で、簡略化され換気やソーシャルディスタンスがある程度保たれた場所では、そうそう悪いことは起きないでしょう。
 なんの意味も見いだせない暗闇の3年間を「意味あるものだったと書き換えられる最後のチャンスが卒業式」です。無意味から意味が見いだせたのならもうほぼ勝ちです。

今卒業式をスルーして、なにもせず寝て過ごしても明日が来て春が来て、勝手に学校生活が終わって新たな生活が始まるでしょう。しかし脳はそれを終わったことと認識してくれません。5月のある日、朝はっと起きては学校行くんだったけな?とか、今日も学校休まないといけないかな?などと無駄に思いを巡らせる羽目になります。それから数年経てば、日常から学校の気配はどんどんと遠のいていき、全く新しい日常を送ることでしょう。しかしそんな中でも、学校に苦しんで通っているリアルな夢や教室で困っているリアルすぎる夢を見続けてるはめになります。たった1日卒業式に行かなかったことで、人生を暗闇で覆うようなコンプレックスが出来てしまうのです。事実上卒業出来ていても、脳の認識では、卒業できず今日もまだ仮想の学校生活が続くのです。

人間関係が希薄になり、四季の移ろいの情緒すら感じなくなった昨今の日本、伝統だったり式典だったりの行事への関心がどんどん薄くなって行っているように感じます。現代には不釣り合いだと感じたり、あまりにも面倒でお金も時間も、もったいないと感じるかもしれません。そんなとき、多くの人は、直感からそのような行事を、避けたり止めたり、ときには憎たらしく思う事すらあるでしょう。そんなものでも、ひとつの民族が長らく続けてきた風習には、ある程度の意味があると思います。あの宮崎駿も風立ちぬの制作時に幾度となく「めんどくさい」「なんてめんどくさいんだ」「本当にめんどくさい」と愚痴りながら映画を一本制作しました。大事なことは思っている以上に面倒なのです。めんどくさいと感じたことの本質を見極める確かな目と知識が必要です。
たった1日、卒業式へ行く、面倒だとか嫌だなと思うだけで、人生の幸福度が少しあがるかもしれません。行く意味が無いと感じる卒業式も行ったことで立派な意味が出来上がるのです。こればかりはオリンピックなどでよく聴かれるあの言葉を思い出して、「参加する事に意味がある。」

コロナ禍や戦争、混沌とする世の中だからこそ、卒業式といった些細なことを大事に行うことが求められていると思います。失ってはじめて、いつも通りの当たり前がかけがえのない幸せだったと気づく前に、今ある日常を大事にしていきたいと思います。

「面倒だから行きたくない、間違った直感です。そのめんどくささに惑わされないで、行った方が良いです。」
「卒業式、ちょっと行く気がしないくらいなら、行った方が後々楽になる可能性がかなり高いです。」
「絶対に卒業式へ行きたくないなら、なおのこと行くと人生変わるはずです。」
「卒業式に行くくらいなら死んだ方がマシと思うくらいなら、家の前で記念撮影程度の式典をやったほうが良いかもしれないです。」

後悔先に立たず。終わってしまったことをあとから何とかするのは非常に難しいです。今なら人生をよりよくするチャンスです。
人は節目やけじめをつけることで次に進むことが出来るようになります。卒業式はその手助けです。面倒だけどやらされることにはきっと意味があります。面倒という感情に惑わされないで。
卒業式に行くかどうかは、最後は自分の判断です。その一つ一つの小さな選択の連続で人生は作られていきます。長い人生も小さな選択の集合と言えましょう。ここで行くと選択を変えた事で人生が大きく変わる気がしませんか?

おわり。

2022/03/03