F社スタッフインフルエンザによって先週行えなかった話し合いを昨日行った。
家が大きすぎる事の発覚から1ヶ月、小さくスマートになった図面のお披露目の日。
低気圧が接近する日本列島。いつもながらの曇り空の下、F社へ向かう。今年は本当に暖冬で雪がほとんど積もっていない。今日も路面は乾いていた。北陸地方は一度冬に入ると路面が乾くことはあまりない。
約束より5分遅く着くと、中ではセカセカとプリントアウトした図面を綺麗に並べていた。印刷したのはつい15分前だったという。
社長は現在2件分の家を設計していると言うのだけど、家族構成も土地の広さも大体同じだという。うちは予算を絞りに絞ることにしたのだけど、年明けからPC画面に向かってうんうん言いながら、仕上げたらしい。
早速、図面をささっと見ると生活動線がとてもシンプルになっていた。
一つずつ、社長より新しい図面のコンセプトの説明を受ける。
敷地の奥に来るはずだった庭は建物西側に細長く来ていた。建物は横方向にぎゅっと圧縮されており無駄がかなり削がれたようだ。部屋数が2部屋減って、総二階を辞めて2階の一部は屋根裏とした。
家を縮小させる上で最もこんなとなるのが、オーディオルームとの兼ね合いだ。オーディオルームというのはおおきければおおきい程よい。しかし生活する上で必要な部屋や機能的な分部では広くしすぎたくない。
これまでは、この矛盾する二つの要望と総二階にこだわっていたことで家がばかでかくなってしまった。この家の課題はオーディオルームの面積を保ちつつ、家の面積をぎゅぎゅっと縮めること。
小さくコンパクトに暮らすことを目標にしている母は新しくなった図面でもまだ広いと感じているようで、ここは縮められないかと詰めかけてくる。結果的にさらに縮まった。
左が以前の図面。右が新しい図面だ。見た目にもとてもスリムになったのがわかる。Afterの図では赤線が入っているが、さらに縮めた部分だ。
廊下を最小限にしたことによりリビングは逆に広くなったし家事動線がシンプルで理想的な最短距離を描くようになった。
一番の変化は、和室リビングキッチンダイニングから庭が眺められること。 部屋そのものの空間の大きさ意外にも外がどれだけ見られて”開放感”があるかが、部屋の質に大きく関わる。以前の図面では南つまり図面では下側にしか無かった坪庭が縦方向に大きく伸びてきた。
大きな出窓を3面配置して、ウッドデッキを設けることで敷地を有効に使いつつも建物自体は小さく、そしてなにより部屋にいるときの開放感はより増した。
オーディオ的な面では、西側に庭と通路を作って空間を空けることで、お隣との距離がさらに開いた。日差しや空気の通りもよくなるし、防音性能も下げてしまってもうるさくなりづらい。
オーディオルームと家全体の大きさの矛盾に関しては、総二階をやめるその上で部屋数を減らすことでかなり現実的な感じになった。
結果的に、オーディオルームの占める割合がかなり高い家になった。(赤く塗ったところがオーディオゾーン)しかし無駄を減らしたことでオーディオルームの大きさは以前よりもすこし大きくなった。LDKの大きさとオーディオルームの大きさがちょうど同じという感じだ。
家をコンパクトにしたことで、ようやくあたらしい家が建つという実感が湧いてきた。消費税の関係上今回の家は8%の期限である3月31日以内に図面を仕上げて契約しないといけない。あと2ヶ月血の滲むような忙しさになりそうではあるけれど、今とても充実しているように思う。
家を建てるにあたり普段読まない本をずっと読んでいる。家の本本は絵図が多く思いの外負担が少なく読める。
しかし家関連の本よりも家を小さくしても大丈夫だと思えるようになったきっかけは、どうやら片付けの本のようで、家をどう作るかよりもライフスタイルを調整した方が融通が利くようだ。
家を設計していくと同時に人生の整理も進んでいくようで、家とはやはり究極の買い物ではないかと熟々思う。
オーディオショップの中古の話
今日のF社A試聴室はソナスのアマティトランディションをFMのパワーアンプ、ナグラのプリアンプ、エソのGrandiosoのプレイヤーで鳴らしていた。気になったのは、FMとアマティを繋いでいたケーブルがValhallaだったこと。長さが3Mあるとのことで買うのは留まったけれど、あのアンクを放出された方がコレクション整理に売りに出した物だという。
オーディオショップを散策していると、”人の人生のなにか”にがつんとぶつかったように触れる瞬間がある。いつか出会ったパラゴンやWILSONのスピーカー、VIVALDIシステムやTHEソナスファベール…それは時に現実離れした華やかさ、夢のようでもあり、時にネクロポリスへ向かう走馬燈が頭を駆け抜けていくようだ。どれも誰かが確かにオーディオを愛し夢を持って生きていた証でありつつ、ただの家電製品とは思えないとても儚く静かでドラマティックな何かを感じる。
高級オーディオ、新しいオーディオ、ビンテージオーディオ、ボロボロの傷だらけのオーディオ、綺麗なオーディオ。その見てくれや来歴にかかわらず、 中古に出されるオーディオは2種類あると思う。自ら持ち主から離れたオーディオと、持ち主から必要なくなったと放されたオーディオ。
まだ”生きているオーディオ”もしくは今にも息絶えて終いそうな苦しさを感じるオーディオ。それは機器を所有していたオーナーがどれだけそのオーディオと共に時間を過ごし愛を注いだのか感じる瞬間だ。ほとんどが勘違いか錯覚に過ぎないのだけど、生きているオーディオに出会った瞬間は息をするのを忘れてしまうくらいに引き込まれる何かがある。
ちょっとしたオーディオ製品が誰かの一生のような分厚い小説の1ページのように語りかけてくる、それほどまでにピュアオーディオは、モノと人との繋がりが深い趣味なのだと思う。
自分は物を見ているのが好きだ。音を聴くだけではない、オーディオショップの中古オーディオが語りかけてくる物語を聴いたことはあるだろうか?
つづく