新しい家へ引っ越してきてからもう半年が経とうとしている。
新築の家に住むことになったのだけど、建て替えではなく新しい土地へ新築して引っ越したため、空き家になった旧宅こと実家をどうするかが問題になっていた。
 12月に引っ越してゆっくりと実家の処分するための作業を行おうとしてたその矢先、日本でもコロナが流行りはじめ、人の移動が止まり、経済が滞り、社会全体で不安が膨らみ…中古の家なんて売れないんじゃないかというような状況になっていた。
 加えて、新築工事でも1月頃からもうすでに、中国からの部品供給が滞りトイレや換気扇といった設備が現場へ納品できないなどという話もちらほら聞くようになった。

 実家を処分するにもいくつかやり方はある
1.全て解体して更地にして土地を売るまたは借地とする
2.家を解体せずに家をそのままにして土地を売る
3.家をある程度リフォームして中古住宅として家を売るまたは賃貸として貸し出す
4.家具などを取り払いからっぽにして家を売るまたは賃貸として貸し出す

 今回処分した、実家はまだ築20年程度で外壁も内装もまだ十分に使える感じで、必要に応じてキッチンやバスなどを新しくするだけでまだ10年以上は普通に使える感じだった。
 新しい家を作りながら改めて実家を見渡すと、造りが非常に良い家だったのだと思い知る。戸当たりだったり窓の額縁や巾木など今ではMDFをはじめとするプリント合板が使われるような場所も、生木が使われていて、今見ても歪んだり、すり減ったりすることなく年相応に綺麗なままだ。
 これは、階段を見ても玄関の框を見ても、令和元年に建てた家よりも良い素材が使われている事が見て取れた。
 今住んでいる家は宮大工によって作られたハンドメイドの家だけれど、家の様々なパーツを割り切って使っている箇所は多い。何より、今の建材は安く丈夫で施工性が高いものが多く下手に無垢材や高級な物を入れるより綺麗に早く仕上がる。
 それが、20年前の家では便利な素材がそんなに無かった事に加えて、家を建てた工務店が住友林業、イノスの家と提携していたために、質の良い木が沢山使われ、レベルの高い大工さんによる施工がなされていた。

 コロナによってリフォームが難しく、コストや時間も余りかけたくなったために、実家は、自分たちでしっかりと清掃して現状渡しという形での売買方式をとった。
 そんな、すこし良い家もコロナによる経済の停滞によって、買いたたかれることがほぼ確定となった。
それでも空き家のまま放置することはできず、少ない労力の中、1月から4月にかけて空き時間を見つけては家の片付けと清掃に躍起になっていた。
 引っ越が終わり生活家財がなくなった家をさらに綺麗に片付けて残った家具やゴミを捨ていった。

※この記事は5千字程度あります。

 

 

1月のある日。ソファーだったりダイニングテーブルなど家具が普通に残っている。まだすぐにここで暮らせそうだ。

 緊急事態宣言が発令されていた4月のある日、買いたいと名乗り出てくれた人が現れた。
1年以上、売れることはないだろうと諦めてだけに、びっくりした。
5月には契約に進み実家は無事に売れる事となった。

 土地と家というとても大きな物の整理に躍起になっていて気づかなかったけれど、
実家が売れてもう自分たちが自由に出入りできないと思うとなんだか急に寂しくなってきた。
 もともと、家は売却することは確定していて、引っ越した次の週には、空になった家の写真や動画を取り始めた。しかし、実家という隅から隅まで本当に身体の一部のように知っているもっとも身近な場所を、写真に収めるのは途方もない時間がかかりそうだった。

 新しいオーナーへ引き渡されるその1週間前に最後の写真撮影に挑んだ。
すっかり全ての家具がなくなりまっさらになった家を見たら、この10年の間オーディオルームとして使っていたリビングが、そういえば家族みんなが集うリビングであったことだったことだったり、昔そこでシマリスを飼っていたことだったり、1階の和室では去年亡くなった祖母が最後に暮らしていた部屋があったりと、家はまるでタイムマシンかのように振る舞う。

 この家に越してきたとき自分はまだ幼稚園生だった。それでも引っ越してきたその日のことや建築中の現場に何度も家族で足を運んだことはいくらか覚えている。
 オープンハウスを行って、工務店の社長さんが、できたての家でいろいろと話している姿や、引っ越しの当日兄弟でまっさらなフローリングでコマ回しをしてしまったことなどしみじみと思い出す。
 冬になればみんなでクリスマスを祝ったり、神棚に鏡餅を飾って正月を過ごしたり、和室で習字の宿題をやったり、夏には祖母と一緒に近くのスーパーへ昼ご飯を買ってクーラーの効いた部屋で一緒にテレビを見ながら昼食を食べたりと、この家この場所には自分が生きてきたあらゆる記憶が刻まれている。
 小さな庭で穴掘りをして遊んだり、冬になれば友達や兄弟と一緒に雪遊びをしたりしていた。小中高と毎日をすごしあらゆる日常がこの家にあったことをしみじみと思い出す。
 この家で過ごした日々はもう戻ってこないこと、かけがえのない子供時代をこの家で過ごさせて貰ったこと、この家で幼かった自分が大人になったこと、思い出といういうには余りにも膨大な自分の半生という記憶が詰まっている実家という場所。

実家という場所は慎重に取り扱わなければならない

 自分自身の成長だったり、大事な人との別れ…沢山の思い出、沢山の記憶が詰まった実家という特別な場所はそうそう簡単に売ったり壊したりしてはいけないようだ。
 多くの人が高校を卒業すると他県の大学へと進学して、都会で就職して実家に帰ってこないなんてことは日本の日常風景だ。そんな中で、自分の部屋だったり家が、勝手に片付けられたり売られてしまったりすることがないように、よく話し合い、丁寧に確認を行って、実家というタイムカプセルを処分しなければならないと思う。
 中には、実家が嫌い、両親と余り仲が良くない人もいるかも知れない。それでも実家というかけがえのない場所を大人になった視線でもう一度見てみたり、親兄弟と家を通して話したりすると、自分が生活し生きてきた軌跡が浮き上がってくると思う。一度離れた実家だからこそ冷静にもう一度、家を見直すことで親や兄弟だったりの何かが見えてきて、子供の頃に抱えたモヤッとした何かが解消できる絶好のチャンスであるかもしれない。

 実家の好き嫌いはどちらにしても、その場所でもう一度深く自分の人生を顧みることは今後の人生に置いても非常に意味があるはずだ。
 とにかく、自分が育った場所のような思い入れのある物が取り壊されたり、売られたりして手放されるときに、しっかりとお別れを告げることは思っているよりも重要であると、家を作っていく中で学んだ。

 実家という性質上、土地や建物の権利や相続など兄弟や親戚で揉めることもよくあるケースだけど、こうして儀式をしっかりとすることが、そのような揉め事で感情的にならず、スムーズに事を運ぶために必要なことだと思う。なにより実家という場所はお金には換えられない場所なのだ。

実家最後の日、千枚の写真を撮った

 受け渡しの日が決まり、家には入れるのが最後となったある日のこと。写真を撮って思い出を保存しようと、いつものようにカメラと飲み物を持って、まるでいままで新築の現場へ通っていたときように気を引き締めて実家へ向かった。
 少しの緊張感ともの悲しさを感じつつ、写真の取り忘れだけはないようにと撮影を頭でイメージしながら車で家へはいる。空っぽになって埃っぽくなった家で、夢中になってシャッターを切り続けた。
 しかしそこは、空き家ではなく、まるで新築で引き渡されたあの日のようにまっさらな新しい家にいるようで、自分がまた子供時代へ戻ったかのように様々な記憶が蘇り始めた。
 一部屋一部屋隅から隅まで色々な角度や画角で写真を撮りつづけた。この場所にそういえばあんなものが置いてあったとか、ここであんなことが起きたとか、濁流のように様々な記憶が吹き出してくる。何か出てくる度に小さな虫を捕まえるみたいにシャッターを切り続ける。
 ただただ写真を撮っていただけなのに、ふとした瞬間、涙がこみ上げてきた。しかしそれは悲しいとか寂しいとかそういうだけの感情ではなく、自分が歩んできた人生そのものだった。それは、臨終間際の老人がみる走馬燈のようで実家というタイムマシンに乗っているようだった。
 写真を撮りつづけて1時間余りが経っただろうか、色々な姿勢で一眼レフを構えて写真を撮っていたらいつもなら身体がもう辛くて立っているのも限界が来る頃。今が現実世界なのか夢の中なのか分からなくなるくらい色々な思い出を家の隅から掻き出しては拾っていった。無我夢中という言葉がこんなにも良く当てはまる瞬間はもう来ないかも知れない。
 本当に”必死”になって写真を撮っていた。もはや自分は写真を撮っているのか、ファインダーの奥に見える過去の自分や家族を見ているのか分からなくなった。

 この日実は、写真だけでなく、GoProで動画も撮るはずだったのだけど、家をぐるりと一周して隅々まで写真をとるともう動画を撮る余力は無くなっていた。加えて、もう頭の中は動画よりも家の思い出でいっぱいいっぱいだった。
 まだこの家に別れは告げたくないと思いつつも、実家とのお別れ会は終わった。

育った実家という場所から離れて

 写真を撮れるだけ撮って新築の我が家へ帰ると、なんだか落ち着かなくなった。
いつものようにYoutubeを見ても音楽をかけても落ち着かない。疲れているから寝ようとしても寝れる感じはしない。ピリピリするような身体の疲労を感じながら、静かな部屋でぼーっとして過ごしているとなんだかおかしな気分になった。
 夜が深まっていく頃、ようやく自分の感情に気がついた。じわじわと涙が出てくる。写真を撮りながら流したはずの涙がまだ出てくる。そうか自分は泣きたかったのか。ようやく気がついた。新しい理想の家に住めることで古い家はもう過去の物だと思っていたけれど、実際はそうではなかった。
 実家という存在は、故郷そのものだった。さだまさしの曲に望郷という曲がある。自分の故郷を懐かしむ歌だ。
この新しい家へ越してくるときこの望郷という曲がえらく今の状況にピッタリと合う歌だと感じてはいたけれど、人生というドラマの中では、実家の存在こそがこの望郷というテーマソングがあるべき場所だった。

 理想の新しい家へ引っ越したけれど、未だに不自由さを感じるのは実家という器で自分が成長したせいだろうか。
照明のスイッチの位置も階段の上り下りも、トイレや風呂の使い方も実家に併せて動きがもうオートメーション化している。今の家は階段はより安全に開放的になっているけれど、どうにもリズムが合わなかったり感覚が違う。トイレに入るときもスイッチだったり扉の開け閉めだったりの使い勝手がまるで違うことに気がつく。
 小さな頃から染みついた実家という特別な容器で育った自分の身体はまだ新しい家へ順応していない。
なにより、そういうことは事前に分かってはいたので、カウンターの高さやスイッチやコンセントの高さだったり床の色だったりは実家をあらゆる見本として踏襲している。
 それでも細部にまで染みこんだ実家という癖はまだ当分抜けそうにない。

 実家にいるような安心感などという言葉があるけれど、それはつまり、身体がピッタリとフィットする心地よさだと思う。最新設備の病院でも、高級ホテルでもない海外の美しいコテージでもない実家という特別な安心感は身体がはっきりと覚えているのだ。

 実家だった家は新しいオーナーへ引き渡されてもうしばらく家としてまた活躍してくれるだろうけれど、自分たちが育った実家はもうないのだと感じる。しかし実家という存在は確実に自分の中にあり今の自分という存在こそが実家があった存在証明であった。
 これは哀しみという言葉では表せないくらいに、大きな自分の人生の土台になった場所、実家と言う存在の重さを思い知った瞬間だった。
 自分の家、住処は人生の拠点であり、家に住めることがこれほどまでに素晴らしく、空気のようで普段感じることができないそのありがたみを初めて感じられたことすらもまた貴重な経験となった。

 実家は、もしかしたら全ての人のパワースポットかもしれない。
なにより、母が建てたゆりかごのような家で過ごせたこの20年間が、どれだけ貴重でありがたい物だったか噛みしめて今後も生きていきたいと思った。
 そしてまたこの新しい家で自分という人生の物語を刻んでいけるか少しの不安と期待が膨らむ。

あの場所に住んでいた半年前までは、今住んでいる場所以外の土地や家で住むことが予想もできなかったこと。
引っ越しすらもできるかどうか分からないままに新しい家を建てたこと。
なによりあの場所で自分は子供から大人になったのだと今更ながら実感したこと。
家を建て、引っ越しを行うことでこんなにも自分について人生について深く考えることになるとは思いもしなかった。

 ”家”を通して学んだことはなんと多いことだろうか。
家は、究極のもの作りであり、人生のゆりかごなのかも知れない。